奥 麻里奈の「実家でファッショニスタ」

東京・阿佐ヶ谷⇔大阪・泉北ニュータウンを月2で行き来する筆者が、おしゃれし甲斐のない実家でコソコソ綴る隠遁おしゃれ生活

日本は快適で清潔でハイテクで便利、だから何?

昨日、NYから帰ってきました!

結局、途中からFacebookに投稿してる余裕がなくなりました 笑

いろいろ記しておきたいこと、いくつかに分けてまとめて記録しておきたいと思います。

NYは私の中では「砂埃の街」というイメージ。

私は何事もビジュアルイメージで捉える傾向が強いためこういう表現になるのですが、NYってけして綺麗な街ではない。

基本的にあまり掃除をする・整える習慣がない?

床や建物は汚れているし、地面はゴミが落ちまくっていて、アスファルトもボコボコで平らに整えられていない。

地下鉄は暗く黒い印象で、いかにも犯罪が起こりそうな雰囲気。水しぶきのような砂埃の跡が車体全体についていても気にすることなく走ってます。あと、ピッみたいなハイテク改札システムもない。

日本に着いて、いかに日本の公共空間が快適で清潔に整えられているか、便利なハイテク機器が多いか、サービスが行き届いているか、毎日いかに自分が快適な生活を送っているかを初めて実感しました。

(初めて、というのは、今まで海外に行ってもあまりその部分に意識をフォーカスさせてなかったから。外国は外国、日本は日本、という感覚でいた)

でも、だから?

だから何?

とも思う。

日本は綺麗でハイテクで心地いい、それは素晴らしいけど、NYが黒ずんでいたとして、ちょっといろいろ荒削りで杜撰だなーと思うところがあったとして、それが何?と。

その代わりにNYという巨大都市でさえ失っていない「人が人らしくあること」という精神的豊かさがあることを何度も感じた。

お店の店員さんや道行く人が「元気?」「どこから来たの?日本?コニチハ!」「その服素敵よ!どこで買ったの?」(←これは空港のボディチェックの人まで言ってた)と声を掛けて会話を楽しむのは当たり前だし、駅の階段でトランクをうんしょうんしょと運んでいるとすぐ手伝いの手が差し伸べられる。

実は帰りの飛行機が2、3時間遅れで飛んだのですが、それも「タイヤに異常が発見されたため」と「加えてコミュニケーションシステムにも異常が発見されたため」。

その間ずっと機内に閉じ込められていた私は「多少遅れてもいいから飛行機落ちないように充分万全にしてから飛んでくれ」と思っていたのでスナック菓子を食べたり寝たり悠長に過ごしていたのですが、隣に座っていた日本人女性は「もう3時だし」と不満げに独りごちてる。

一方、飛んだときに「よくやったね!」とばかりに拍手で労うアメリカ人乗客。

無事着陸したときの「大変ご迷惑をお掛けしましたことを深くお詫び申し上げます」的なアナウンスにも、「俺たちは気にしてないぞ!」と大声を張って飛行機会社を鼓舞してた。

この人たちには、日本人がその細やかな感性によって物質的豊かさに費やしたエネルギー分かな?と思われる精神的余裕、精神的豊かさ、つまり「人間らしいあたたかさ」を損なわずに人生を謳歌する態度を持っている。

(ちなみに隣の女性は「携帯がない、さっきまであったのに」と席周りをまさぐっていたので、私も探して見つけたら「すいません」と気まずそうに一言だけ言ってそそくさと切り上げた。こういうのって、人見知りは言い訳にならないよなぁ、と一番思うシーン)

世間のために自分の時間を投げ打って、すり減って疲弊してくしゃくしゃになって、人と関わったり受け入れたりする精神的余裕をなくしてまでして整える日本人。

(「世間=人の目」であって、けして「他者のため」というスピリットでないところがポイント)

対して、あまり綺麗とは言えない街並みは「そんな細かいところまで拘るのはめんどくさいよ、誰のためにやるの?だったら自分の時間を大事にするね」という人生思想によって形作られたものなのでは?と思う。

ポイ捨てしとる!恥ずかしげもなく!とニューヨーカー見て思ったりもしたけど...

日本人、おもに東京の人、やっぱポイント外してない?って思わずにはいれなかった。これは日本にいてもいつも感じてた違和感だったけど。

おそらく、私たちは大事にしたいものが分からなくなってるんだろうな。だから人の目に促された行動をする。

もうちょっと、東京に人間らしさを回復したいな。と思いました。長くなったけど。

写真は、機内で(おそらく)コミュニケーションシステムを修理する人たち。ちょうど私の席の天井部分でした。

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