奥 麻里奈の「実家でファッショニスタ」

東京・阿佐ヶ谷⇔大阪・泉北ニュータウンを月2で行き来する筆者が、おしゃれし甲斐のない実家でコソコソ綴る隠遁おしゃれ生活

畳の上で愛でる指輪

昨日、実家に帰ってきました。

 

私には、近くに住んでいるものすごく身近な存在の叔母がいて(母の妹)、保育園の頃から私の家族と一緒に夕食をよく食べていた記憶があるほど、家族みたいに距離が近い、第2の母のような存在なんですが、その叔母に指輪をもらいました。

 

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この叔母の愛称はえっちゃん。

 

えっちゃん叔母は、「これ◯万円もしたやつよ」(まあ伏せておきますが)、「たっかいの買っても結局全然せえへんし、今まで無駄なことしてきたわ。もう指輪なんか買えへん」と言って、「あんた欲しい?」と聞いてきたので、当然「欲しい」と答えました。

 

(この僥倖が逃げていかないように、「もらえるかもしれない」興奮と一気に膨張しそうな欲望を抑えて、ついついはにかんでるが故のかわいくない声で「欲しい」と呟きました。)

 

 

私が服飾品、とくに洋服が大好きなのは、このえっちゃん叔母の影響が多分にあります。

 

えっちゃん叔母はもの選びのセンスが良い人で、何気なく身につけているものや自宅の家具、置物、それ以前に自宅の建物自体が洗練されていることを、私は子どものときから幼心に感じ取っていました。

 

普段着を着ていても、色合いなのか素材感なのか、どこか気が利いていて、えっちゃん叔母を見るといつも、体の周りに光の粒子が浮いているような、霧がかかって白くなっているみたいな、フワッとした「洗練エア」が漂ってるのです。

 

うちの母は「品」があるものを選ぶ人だと思っているのですが、えっちゃん叔母は「品」に「+洗練」がある人です。

 

 

えっちゃん叔母には前にも指輪をもらったことがあります。

 

私が生まれる前に私の一家(父、母、兄2人)はカナダに住んでいた時期があったのですが、えっちゃん叔母が訪れた際、現地で買ったものだそうです。

 

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こちらはちっちゃいダイヤがついているものの、3万円くらいのものらしい。

 

えっちゃん叔母の自宅は泥棒に入られたことがあって、高価な宝石や時計などをごっそり持っていかれたんですが、この指輪だけはその災難からなぜか免れたという…。

 

「なんでよりによって3万の指輪だけなんや〜(嘆)」というエピソードつきの指輪です。

 

そして、この指輪だけは、ほぼ毎日つけている割に、私も何故か失くさないのです。

 

 

アクセサリーは、私にとってファッションではありません。

 

「服にコーディネートさせてこれをチョイス」みたいな感覚のものではない。

 

指輪やブレスレットやネックレスは、毎日をともに過ごす「お守り」です。

 

だからこの指輪については、「デザインが好き」というよりも「えっちゃん叔母からもらったという意味合い」が私にとって最も重要。

 

この指輪をはめることで、えっちゃん叔母の魂の欠片にいつも守られているような気持ちになる。

 

(でも実際、この指輪は「かわいい」とよく褒められます。)

 

だから、昨日もらった指輪にも、服がクローゼットに1着増えるのとは違う、えっちゃん叔母の心を受け継ぐような神聖な気持ちが肚の底から広がってくる喜びを感じました。

 

 

そんな風にして、私は母や叔母たち4姉妹から、服や鞄やアクセサリーという形をした愛情をたくさん受け取ってきました。

 

母を含めた4姉妹の子どものうち女なのは私だけだったから、娘時代に使っていたけどもう使わなくなった服飾品は、幸運にも私のところに一局集中で降りてくるのです。

 

そうやって私のもとに来た、時代を超えた品々に宿ったきらめきが、私の美的視点、「美的感覚における私らしさ」を培ってくれたと感じています。

 

だから、私の「美を見る目線」は、複眼です。

 

「今という時代の瞬間美」と「時代を何十年と遡ってもそこに湛えている普遍美」、両方の視点でもって、私のレーダー探知機は作動しています。

 

そして「これは」というきらめきを持つ服飾品を掘り出し、「ういやつ」と日々愛でている。

 

そういう自分のお気に入りたちを、実家という身も蓋もない、ファッショナブルとは対岸にある現場から、このブログでお披露目していきたいと思います。